5月7日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」は、「世界から注目される町工場、絆が生んだ奇跡の逆転」が放送されました。
この記事では、5月7日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」の下町工場のネタバレ内容と感想について、お伝えいたします。
アンビリバボー蝶ネクタイの少年の内容ネタバレ
【ストーリーテラー】
北野武(タケゴロウ扮)
【スタジオメンバー】
バナナマン(設楽統、日村勇紀)
剛力彩芽
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下町の崖っぷち工場に起きた奇跡
東京墨田区。荒川近くの町工場地帯。
かつてこのエリアに1万軒あった町工場は、現在2千軒にまで激減した。
町工場は、昭和の高度経済成長期を境に衰退の一途を辿っている。
そんな中、国内からだけでなく、世界から注目される町工場がある。
浜野製作所だ。
技術とアイディアで、急成長を遂げ、発注された製品を作るだけでなく、自社で製品の設計開発も手がける革新的なものづくり企業だ。
一昨年の6月には、当時の天皇陛下が浜野製作所に視察にいらしたほど。
この急成長の影には、信じられない苦難があったと誰が思うだろうか?
突然の災難、全てを失った町工場。
一時は、たった一社しか取引先がなかった浜野製作所は、現在5000社と取引している。
これは、潰れかけた町工場が、驚異の復活を遂げた人情味溢れる実話だ。
浜野製作所社長・浜野慶一は、墨田区にある自宅と工場を兼ねた小さな町工場で育った。
手掛けていたのは、プレス加工。
材料の金属を金型に当て圧力を加えて変形させ、様々な部品を作る。
父が社長で母が経理という小さな会社。
いつも両親は仕事のことで言い争い飯がまずくて仕方なかった。
「父親と母親が なぜこの仕事をやっているのかって言ったら、学歴がないし、他の仕事できるわけじゃないし、飯だって食っていかなきゃいけないんでね。仕方なくこの仕事をやっているんだなと勝手に自分が思い込んでしまっていた。」
と、浜野さんは語る。
会社を継ぐ気がなかった浜野さんは、就職活動をして内定をもらっていた。
そんな時、珍しく父から飲みに誘われた。
照れくさくぎこちない時間が流れたのち、やがて、父が「俺な、浜野製作所に誇りを持っているんだ」と、急にそう切り出してきた。
父は福井の漁村から親戚を頼って上京。
修行を積んだ後、浜野が幼かった頃に独立した。
そして、父は浜野にこう話した。
「小さな部品を小さな機械で日々作る仕事は、一見地味だ。でも、この部品がなければ、自動車やエアコンも動かない。たとえ大手の下請け、孫請けでも、他人様の生活に役立っているって俺は思ってるんだ」
こんな話を父の口から聞いたのは、初めてだった。
それを聞き、浜野は、見てくれだけで会社の良し悪しを勝手に判断していたことを恥ずかしく思った。
内定も貰っていた浜野は、3ヶ月ほど迷ったが、結論に達し、父の会社を継ぐことを決意した。
喜んでくれると思ったが、10年間は現場のことを隅から隅まで勉強してこい。
そうじゃないと職人と話しも出来ないと言われた。
もっともだと思った。
父の紹介で、他の精密板金加工会社で働くことに。
従業員100人の本格的な工場だが、父が選んだのには理由があった。
これまでは、同じ物を量産し続ければ良かったが、そういう仕事はこれから人件費の安い海外へ流れていく。
これからは何でも作れなければならない。
たった1個の試作品でも作る、多品種少量生産をメインにしなければ、生き残れない。
鋭い眼差しで、父は未来を見据えていた。
そして父は、その精密板金加工会社の社長に頭を下げ、給料は安くても良いから色々な部署を回らせて修行をさせてくれと頼んでくれたのだ。
昭和の終わりに、ここまで時代の先を読んでいたのだ父。
「オヤジって、すげぇ。時代がどんどんオヤジの言うとおりになってくる。」
2年、3年、5年、働くにつれ、浜野はそう思うようになった。
浜野は職場の後輩に夢を熱く語った。
そして、「自分が作った自動車に乗ったら、どんなに楽しいだろう!」 瞳をキラキラ輝かせながら、そう語るのは、3歳年下の板金職人・金岡だ。
遅刻はしょっちゅうで、なにかと上司に怒られがちな男だったが、浜野とは ものづくりの夢の話で盛り上がった。
2人は酒を酌み交わしては、夢の話ばかりしていた。
しかし、修行がまだ終わっていなかった 1993年3月。
父親が病に倒れ、この世を去った。
浜野は急遽修業を切り上げ、二代目社長として工場を継ぐことになった。
母親から経営のことを教わり、仕事をこなしたが、その2年後・・・
母親も他界。
時を同じくして、雇っていた職人が、高齢のために退職、従業員はゼロになった。
ハローワークに求人を出してはみたが、社屋のボロさと工場の汚さを見て、面接を受けないで帰ってしまったという。
そんな時、ふと頭を過ぎったのが、修業先の工場にいた、あの金岡だった。
金岡と共に浜野製作所をたった2人で再スタートさせたのは、バブル景気が終わった 今から25年前のことだった。
取引先もでき、様々な製品を作る体勢も整ってきたそんな時、悲劇が突然襲い掛かった。
火事だった。
火元は立て替え工事中だった隣家だった。
既に消防へ通報はされていたが、浜野の自宅兼工場にあっという間に燃え移った。
幼い頃から慣れ親しんだ我が家、両親が遺してくれた工場が燃えていく。
思い出が走馬燈のように蘇った。
しかし、この後浜野は突飛な行動に出る。
浜野は、不動産屋に駆け込んだのだ。
仕事を再開できる「仮工場」が必要なのだ。
3日後の納期まで休んではいられなかった。
数時間後には 不動産業者が、一人の大家を紹介してくれた。
その大家は、昔小さな工場を営んでいたが、10年前、火事にあったという。
会社の危機に大家の夫は、食べるものも食べず、寝る間も惜しんで働いた結果、会社は持ち直したが、無理がたたってその後亡くなり後継者もおらず、会社を閉じ、その建物だけが残っているのだという。
大家は、浜野のことが他人事には思えないと、建物を好きに使っていいと言ってくれた。
こうして、火事が起きたその日のうちに、仮工場を手配できた。
次は、火事でプレス機械が使えなくなり、かわりの機械が必要だったが、中古の安い機械でも30万円はくだらなかった。
余裕のなかった浜野には、出せない額だった。
だが「蹴飛ばし」という、人力のプレス機械が1万円で売られていたのだ。
ペダルを蹴ることで、上から下に圧力がかかり、金属が金型の形に加工されるというシンプルな仕組み。
これを使い、後日納品にも十分間に合うのだが、その日 火事の現場に戻ったのは夕方。
自宅兼工場は全焼、機械は全滅だった。
しかし、燃え残ったものもある。
父の魂と言える、金型 4000個。
だが、消火の際、水がかかったことで錆びが生じ始めていた。
磨かなければ、使い物にならない。
それからというもの、金岡は文句も言わず、土日も返上し、連日 深夜まで金型を磨く作業に付き合ってくれた。
浜野は「金岡に給料を払ってあげなければ」と思った。
それが社長としての責任だった。
そんな 最中、朗報が舞い込んだ。
火事の原因は隣家の建て替え工事をしていた作業員の火の不始末だったと判明。
住宅メーカーから6000万円の賠償金が支払われることになったのだ。
火災保険には入っていたものの、わずかばかりの保証では、全く足りていなかった。
そのため、なんとか賠償金で最大の危機を回避できると、希望を見出していた矢先の事だった。
昼のニュースで、驚愕の事実を知った。
その住宅メーカーが倒産したというニュースだった。
それが事実なら、父が残してくれた会社を失ってしまう。
一縷の望みをかけ、住宅メーカーに掛けあおうとしたのだが、関係者と話ができるどころか、会社の中にすら入れなかった。
訴訟を起こせば、いずれ賠償金は出るのかもしれない。
しかし、蓄えのない工場はもう持ちこたえられない。
浜野が工場に戻れたのは、深夜になってのことだった。
すると、工場の明かりがつけっ放しになっていた。
工場の中で、金岡は黙々と金型の錆びを落としていた。
浜野は金岡に「もうお前に給料を払えないんだ。別の会社を必ず紹介するから、他で働いてくれ」と言った。
すると金岡は、「社長、俺辞めないから。俺がここにいるのは、あんたと仕事がしたいからだ」と言った。
金岡は、以前から機械を分解し、また組み立てるのが、至福の時間だったという。
物づくり好きが高じて、板金職人になったものの、言われた仕事をこなすことにはやりがいを見出せず。
上司に怒られてばかり。
そんな中、彼にとっての唯一の救いが浜野だった。
飲んではいつも夢を語る、こんな人と出会ったのは初めてだった。
浜野から誘われたときは、嬉しかった。
しかも浜野は、火事で大変な時でさえ、夢を諦めていなかった。
金岡さんは、インタビューにこう答えてくれた。
「浜野慶一っていう人と一緒にやっていきたい、それが面白くて一緒にいるわけですから、別に 会社ありきではない。」
先が見えない状況ではあったが、浜野は、金岡の言葉で、会社の存続を誓った。
どん底からの再出発
そこへ、当時、火事の見舞いに訪れ、唯一の取引先だった企業の担当課長が仕事を発注してくれた。
正直、浜野には自信がなかったが、生き生きとした2人の顔をみた担当課長は、先行納品によって生産が稼働しているため、残りの納品が多少遅れても製品完成に遅れは出ないと、ありがたい配慮に感謝しかなかった。
しかしその翌日、課長は浜野製作所の実情を部長に報告すると、浜野製作所から仕事を引き上げろと言われてしまった。
発注から2週間後。
浜野たちは約束どおり100個を納品した。
課長は、浜野には何も言わず、残りの100個もそのまま発注した。
上司に逆らってまで 浜野の肩を持とうとする課長。
その裏には 浜野自身も知らなかったという驚きの理由が隠されていた。
それは、火事の3ヶ月前のこと。
大手から急ぎの仕事が入ったのだが、社員のミスで発注し忘れていたことに気付いたのは、とある週の金曜の夕方。
一番の得意先からの発注。
穴を開ける事は許されない。
慌てて注文書を切り、浜野に電話をしたのは、金曜の19時を回っていた。
担当課長は、浜野に「すごく困っている件があって、できる範囲で良いから、何とか急いでくれないか」と依頼した。
それからまもなくして、部下の元に浜野から電話が。
課長の様子が気になった浜野は事情を聞くと、やむなく部下が、発注漏れのミスを浜野に話した。
そして迎えた月曜の朝。
始業の1時間前の7時には、発注した製品が納品されていたのだ。
このことを、課長は部長に訴えた。
だが浜野は、急発注に応えた経験から、あるヒントを得ていた。
大手メーカーに勤務する大学の先輩に相談すると、部品メーカーを何社か紹介してくれた。
大手からの紹介のため、どこも最初は会って話を聞いてくれたが、帰り際にやんわりとこう言われた。
「浜野さんみたいなプレス屋さんとは、7〜8社ずっと取引いただいているので、なかなか厳しいですね」
後日、電話をしたものの、担当がいないと取り次いでもらえなかった。
ラチがあかず行ってみたら、居留守を使われていたと知った。
浜野は、めげずに訪ね続けたが、挨拶するだけで、手ぶりでバッテンをされるようになった。
それでも、浜野は通い続けた。
そんなある日のこと。
いつものように営業マンに挨拶すると、特急品で1回限りの仕事だったが仕事を発注してくれた。 そ
れは、無茶な期限だったが、浜野は「ぜひやらせてください」と仕事を受けた。
そして、2週間の期限と言われた1週間後、浜野は製品を納品した。
浜野は少しでも、他社との違いを出すために、1週間で納品したのだ。
その翌日のことだった。
例の営業マンはまたも焦った様子で仕事を打診してきた。
納期は10日だったが、浜野がやってきたのは5日目の朝のことだった。
最初に訪ねた時以来、カウンター越しでしか話してくれなかった営業マンが、中に招き入れコーヒーをいれてくれた。
そして、こう言った。
「下請けはどこも量産の安定した仕事を欲しがります。面倒な短納期の1品ものは、効率が悪いからやりたがらないんです。
それに比べて、浜野さんは”おはよう” “こんばんは”と気持ちのいい声で挨拶し、無理難題を言っても、2週間といえば1週間で仕上げてくれる。ありがたいです。」
さらなるヒントをもらった気がした。
聞いてみると、他の部品メーカーでも、同じような悩みを抱えていた。
こうして浜野製作所は、少しずつ業績を伸ばし、火事後の危機を乗り切ると、無理な借金をせずに、中小企業向けの公的融資の力を借り、新たな機械を導入するなど一歩ずつ前進。
さらに相手の身になって頼られる町工場に。
浜野の父が残したあの言葉が、現実になった。
その後 浜野製作所は、発注された製品を作るだけでなく、部品の設計やデザインにも挑戦。
ミクロン単位の加工技術で、医療機器部品や自動車部品の試作品などを製作。
さらに、オブジェやアート作品などの製作も手がけている。
現在の浜野製作所を訪れた。
町工場とは思えない、カラフルで明るい建物。
その夢も果たした。
火事から7年後の2007年には、火事直後に比べ 従業員も増え、売り上げは 火事以前のほぼ10倍に。
今年に入って、取引先は5000社をこえた。
一昨年には、当時の天皇陛下も視察に来られた。
その時、浜野さんは、陛下からこんなお言葉を賜った。
「皆さん方の技術で、世界が幸せになれるように頑張ってください」と。
金岡さんは、現在、専務取締役という地位を与えられながらも、いつも現場に出てくる根っからの職人気質だ。
浜野さんはいう。
「金岡は最大のピンチを救ってくれた立役者だから、感謝の想いも込めて専務の地位を与えたが、彼自身は人を管理するとか、マネジメントするとかが苦手で、会社の規模もどんどん変わってきてるから、お前も勉強しろと言ってしまったんですね。会議でも無言で。
でも、工場で溶接をしている姿をみたとき、すごくカッコよかったです。輝いていたんですよ。それで、ポジションはそのままに好きなことを現場でやってもらおうと」
そして、浜野製作所で開発した電気自動車で、たっての夢も叶えた。
会社の壁に書かれた経営理念、そこには こう綴られている。
「おもてなしの心を常に持ってお客様、スタッフ、地域に感謝、還元し、夢と希望と誇りを持った活力ある企業を目指す」
浜野製作所の2階には、「ガレージスミダ」と呼ばれるスペースがある。
3Dプリンターやレーザーカッターといった、最新の工作機器を備えたこのスペースは、地元企業の製品開発などを支援する場だ。
さらに、浜野製作所をはじめ、下町の町工場が力を合わせて開発した、深海探査艇「江戸っ子1号」。
安価なコストで深さ8000メートル級の深海の調査に挑んだ。
発注されたものを、ただ大量生産するだけではない。
「これからは、何でも作れなきゃダメなんだ」という、父の教えが見事に形になっていた。
そんな浜野製作所は、いわゆる町工場のイメージとは違って、若い技術者が多い。
一体なぜか?
実は、以前の工場では、なかなか若い人材が育たなかったという。
理由は、ベテラン職人の存在。
技術は教わるものじゃなくて盗むものだというのが、現場では当たり前になってしまっていた。
若者たちのほうも、何回か聞いて教えてくれないと、聞かなくなってしまうという。
ある年、一橋大学の学生をインターンシップで招く機会があったが、技術を学びたいという学生たちに職人たちは冷たかった。
そんな中、浜野さんは職人たちに日報をパソコンで入力するように指示した。
職人たちはパソコンの入力操作が苦手。
そんな時に、学生たちがタイピングを代わりにやってあげたり、ローマ字のアイウエオ表を作ってあげたりしたという。
すると、職人たちが金型の作り方などを教えはじめたという。
以来、職人技に魅力を感じたのか、浜野製作所には、大学からの新卒者が毎年入社しているという。
世界に向けて作った開発拠点「ガレージスミダ」の一角にはお洒落なバーコーナーがある。
かつて酒を酌み交わしながら、膨らませた夢。
町工場の可能性の原点と言える場、なのかもしれない。
アンビリバボー蝶ネクタイの少年の感想
今回は、下町の崖っぷち工場に起きた奇跡の話しでした。
ご両親が他界、引き継いだ町工場は倒産寸前、希望が見えた時に火事と、浜野さんたちに試練が続きますが、その中でも夢を見続けた浜野さんや金岡さんに感動しました。
こういう人が今回のようなコロナなど予想外の出来事が起きても、力に変えて生き残れる人たち何だろうなと思いました。
天国のご両親もとても喜んでいるんじゃないかなと思いました。